三千院門跡
基本情報
- 所在地
- 〒601-1242
京都府京都市左京区大原来迎院町540
- TEL / FAX
-
075-744-2531
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 鞍馬山鋼索鉄道線 多宝塔 5620m
- 鞍馬山鋼索鉄道線 山門 5630m
- 叡山電鉄鞍馬線 鞍馬 5680m
- 周辺情報
- 三千院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 魚山園 旅館
- 実光院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 料理旅館小の山荘 旅館
- 京都市立大原中学校 中学
- 京都市立大原小学校 小学
- 勝林院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 来迎院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
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- 三千院
- 三千院 (さんぜんいん)は、京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。 三千院門跡 とも称する。 京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮 院 、妙法院とともに、天台宗山門派の三 門跡 寺院の1つに数えられている。
- 門跡
- 院 を拠点とし、前者には堀河天皇の皇子である最雲法親王、後者には鳥羽天皇の皇子である覚快法親王、次いで摂関家出身の慈円が入ったことで格式を高めて 門跡 寺院となった。なお、一般には明快を梨本 門跡 の祖、行玄を青蓮 院門跡 の祖とみなされているが、梨本・青蓮 院 が「両 門跡
- 曼殊院
- 曼殊 院 (まんしゅいん)は、京都市左京区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。開山は是算(ぜさん)。竹内 門跡 とも呼ばれる 門跡 寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮 院 、 三千院 (梶井 門跡 )、妙法院、毘沙門堂 門跡 と並び、天台五 門跡 の1つに数えられる。国宝の黄不動、曼殊 院
- 青蓮院
- 青蓮 院 (しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮 院門跡 (しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。 青蓮 院 は、梶井(現・ 三千院
- 妙法院
- 族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「 門跡 」と称するが、妙法院は青蓮 院 、 三千院 (梶井 門跡 )とともに「天台三 門跡 」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王 院 (三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている。
- 澄覚法親王
- 澄覚法親王(ちょうかくほっしんのう、承久元年(1219年) - 正応2年4月18日(1289年5月9日))は、鎌倉時代の天台宗 三千院 の 門跡 。後鳥羽天皇の孫で、三品・雅成親王の子。房号は円融房。 比叡山に入り、梶井 門跡 尊快入道親王に師事して出家し、真仙僧正から灌頂を受けた。文永2年(1265年)天台座主に任じられ、亀山天
- 1219年
- 鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺される 2月18日(承久元年2月2日) - 徹通義介、鎌倉時代中期の曹洞宗の僧(+ 1309年) 澄覚法親王、鎌倉時代の天台宗 三千院 の 門跡 (+ 1289年) 2月13日(建保7年1月27日) - 源実朝、鎌倉幕府の第3代征夷大将軍、源頼朝の子(* 1192年) 2月13日(建保7年1月27日)
- 1289年
- 一然、高麗の禅宗の僧(* 1206年) ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ、イタリアの貴族(* 1220年?) 澄覚法親王、鎌倉時代の皇族、天台宗 三千院 の 門跡 (* 1219年) マスウード・ベク、モンゴル帝国の官僚(* 生年未詳) ヨハネス1世ドゥーカス、テッサリア君主国の君主(* 生年未詳)
- 天台座主
- で続いた。1人で複数回任命されることも多く、慈円や尊円法親王などは4度、天台座主に就いている。 中世になると、摂家 門跡 、宮 門跡 の制度が整えられ、とりわけ妙法院・青蓮 院 ・ 三千院 (天台三 門跡 )から法親王が天台座主として就任することが多くなった。また、室町時代には足利将軍家からも出ている。天台座主となった
- 京都寺社等同時放火事件
- 肝を抜いた」とし、天皇にまつわる諸施設は徹底的に破壊されて当然と主張した。 今回被害にあった霞会館は、「皇室の藩屏」とされた旧華族の親睦会の会館で、また青蓮 院 、仁和寺、 三千院 は 門跡 寺院として有名であるなど、いずれも皇室に縁のある施設であった。 『過激派事件簿40年史』立花書房、2001年 表示 編集
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