実光院
基本情報
- 所在地
- 〒601-1241
京都府京都市左京区大原勝林院町187
- TEL / FAX
-
075-744-2537
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 鞍馬山鋼索鉄道線 多宝塔 5610m
- 鞍馬山鋼索鉄道線 山門 5620m
- 叡山電鉄鞍馬線 鞍馬 5680m
- 周辺情報
- 勝林院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 三千院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 京都市立大原中学校 中学
- 京都市立大原小学校 小学
- 魚山園 旅館
- 料理旅館小の山荘 旅館
- 来迎院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
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- 実光院
- 実光院 (じっこういん)は、京都市左京区大原勝林院町にある天台宗の寺院。大原寺勝林 院 の塔頭。山号は魚山。本尊は地蔵菩薩。三千 院 の北にある。寺紋は細川桜である。 宝泉 院 とともに大原寺勝林 院 の塔頭の一つとして創建される。その後、後鳥羽天皇第10皇子の梶井宮門跡尊快法親王により、境内に後鳥羽天皇と順徳天皇の遺骨を安置して陵が造成された。
- 仁孝天皇
- 女御:鷹司祺子(新朔平門院)(1811年 - 1847年) - 鷹司政煕女、繋子妹 第四皇女:摩尼珠院宮(1829年 - 1831年) 典侍:正親町雅子(新待賢門 院 )(1803年 - 1856年) - 正親町 実光 女 第二皇子:鎔宮(1825年 - 1826年) 第四皇子:統仁親王(孝明天皇)(1831年 - 1866年) 第六皇子:節仁親王(第11代桂宮)(1833年
- 勝林院
- 光 坊・寶泉坊・普賢坊)の子 院 があったが明治維新後に衰退し、現在は宝泉 院 ・ 実光院 の2 院 が残っている。勝林 院 の住職は3年交代で2塔頭の住職が兼務している。 寛仁4年(1020年)、寂源が延暦寺の僧である覚超と遍救を招請して、勝林 院
- 宝泉院
- 宝泉 院 (ほうせんいん)は、京都市左京区大原勝林院町にある天台宗の寺院。大原寺勝林 院 の塔頭。山号は魚山。本尊は阿弥陀如来。天台宗の三門跡寺院の1つである三千 院 の参道奥にある。 実光院 とともに大原寺勝林 院 の塔頭の一つとして創建される。『声明目録』を著すなど声明の大家として知られる宗快法印によって嘉禎年間(1235年
- 鷹司基忠
- もとただ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人。関白氏長者・鷹司兼平の長男。官位は従一位・関白、太政大臣。鷹司家2代当主。号に円 光院 関白、円 光院 入道関白。 宝治元年(1247年)、関白氏長者・鷹司兼平の長男として誕生。母の一条 実 有の娘は宝治3年(1249年)の3月、基忠が3歳のときに死去している。
- 持明院統
- を支持する態度を示した。崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇 光院 流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた栄仁親王は、祖父の 光 厳法皇から伝えられていた持明 院 統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに出家した。親王の子孫は、 光 厳の配慮のおかげでなんとか残った伏見御領の「伏見殿」に住
- 正親町家
- 寛政年間の公明は、尊号一件( 光 格天皇が実父閑 院 宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたのを江戸幕府が妨害・阻止した事件)をめぐり武家伝奏として議奏中山愛親とともに朝幕間で折衝にあたったが、寛政5年に幕府は中山愛親と共に召喚・訊問して事件の責を負わせ、50日間の逼塞に処された。 江戸後期の 実光 の娘雅子(待賢門 院
- 慶光院俊
- 慶 光院 俊(けいこういん しゅん、明治36年〈1903年〉3月12日 - 平成2年〈1990年〉3月20日)は、昭和時代から平成時代にかけての日本の神職。伊勢神宮大宮司。 1903年(明治36年)、三重県に生まれた。生母は京都府士族籍の女性清水ウタである。慶 光院
- 後花園天皇
- 伏見宮貞成親王(後崇 光院 。崇光天皇の孫)の第一王子。母は庭田経有の女の庭田幸子(敷政門 院 )。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、傍系で三従兄弟にあたる称 光 天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ
- 滋野井家
- 実 勝は当家の人ではないため断絶はしていないと述べるが、季吉のことには触れていない。 江戸時代の寛文4年(1664年)4月、当主の滋野井教広の職務怠慢を理由に滋野井家は御家断絶の処分を受け、教広は広島藩へ流され、嫡男の 実光 も連座して土佐藩に流された。 実光
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