覚勝院
基本情報
- 所在地
- 〒616-8412
京都府京都市右京区嵯峨大覚寺門前登リ町2
- TEL / FAX
-
075-861-0814
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 嵯峨野観光鉄道 トロッコ嵯峨 930m
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- 覚勝院抄
- 「覚勝院」(江戸時代中期以降の文献ではしばしば「 覚 性 院 」と記されていることもあるがおそらく宛字であると見られ、また「 覚 正 院 」と記されている資料もある)は、もともとは大覚寺の塔頭のことであり、その主の 院 号のことでもある。「 覚勝院 」と称した人物は、室町時代から江戸時代にかけて多くの資料に現
- 覚仙町
- 勝院 がある(弘前中惣屋敷絵図)。 元禄9~享保6年 - 津軽の三刀匠として知られた国吉家・森宗家・国広家の屋敷が見られる(町絵図)。 江戸期 - 弘前城下の一町。 明治初年~明治22年 - 弘前を冠称。 1899年(明治22年) - 弘前市に所属。 元禄13年から享保6年にかけて町名が 覚勝院
- 旧注
- 『紹巴抄(しょうはしょう)』1565年(永禄8年)、20巻20冊、里村紹巴 『山下水(やましたみず)』1570年(元亀元年)、三条西実枝 『 覚勝院 抄(かくしょういんしょう)』1571年(元亀2年)、25巻、 覚勝院 『孟津抄(もうしんしょう)』1575年(天正3年)、九条稙通 『岷江入楚(みんごうにっそ)』1598年(慶長3年)、中院通勝
- 品川町 (弘前市)
- 元禄8年 - 飢饉が起こり、当地の南部に大穴を掘り、飢餓者を埋める(平山日記)。 享保4年頃 - 土手後町に町家90軒、武家屋敷3軒、社家山辺庄太夫、 覚勝院 の屋敷がある(町家数円)。 宝暦6年 - 武家屋敷が若干数、町家110軒と弁天社地がある(富田町支配屋敷舗改大帳)。弁天社は大同2年に創建され、「
- 真言宗大覚寺派
- 宗祖 弘法大師(秘鍵(ひけん)大師) 保寿 院 流 大覚寺紋 大本山 大覚寺(京都市右京区) 準大本山 大山寺(神奈川県伊勢原市) 別格本山 覚勝院 (京都市右京区)、高山寺(兵庫県丹波市)、立江寺(神戸市兵庫区)、密蔵 院 (兵庫県明石市)、大聖寺(岡山県美作市)、高山寺(岡山県井原
- 大根焚き
- むき、炊き出したもの。大根と油揚げが入る。 大原三千 院 - 2月、初午。大根を護摩にて加持し、大釜で炊いたもの。 嵯峨 覚勝院 - 11月、小雪の日を挟む2日間、大根供養。梵字が書かれた大根を煮込んだもの。2014年(平成26年)で終了。 東山同聚 院 - 11月、小雪の日を挟む前後10日間、大根供養。
- 夕霧太夫
- れ、大坂中がその死を惜んだという。亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は浄国寺と生家の檀那寺であった清凉寺塔頭地蔵 院 (廃寺。地蔵 院 墓地は大覚寺塔頭 覚勝院 が管理)にあり、毎年4月第1日曜日には浄国寺で「花まつり 夕霧太夫行列」が、毎年11月第2日曜日には清凉寺で「夕霧供養」が催されている。
- 覚勝院
- 覚勝院 (かくしょういん)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院である。大覚寺唯一の塔頭寺院で、大覚寺派の別格本山である。本尊は十一面観世音菩薩。嵯峨聖天の通称で知られる。 正平年間(1346年~1370年)に 院 家の住坊として創建された。本堂は正徳元年(1711年)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣が
- 甘露寺親長
- 母:不詳 妻:不詳(美濃斎藤氏娘か?) 男子:万里小路春房(後に伊勢貞親に連座して出家、江南 院 龍霄と号する) 男子:甘露寺元長(1457-1527) 男子:了淳 - 覚勝院 の可能性有り 男子:長深 - 覚勝院 の可能性有り 女子:甘露寺親子 - 典侍 女子:真盛 女子:甘露寺朝子 - 典侍、中御門宣胤室
- 歓喜天
- 大福田寺(三重県桑名市)- 桑名聖天、桑名の聖天さん 最乗 院 (滋賀県大津市)- 比叡大聖天 双林 院 (京都府京都市山科区)- 山科聖天 随心 院 (京都府京都市山科区)- 毎月1日と16日に浴油祈祷 雨宝 院 (京都府京都市上京区)- 西陣の聖天さん 香雪 院 (京都府京都市東山区)- 東山聖天 覚勝院 (京都府京都市右京区)- 嵯峨聖天
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