カトリック教会大浦天主堂司祭館
基本情報
- 所在地
- 〒850-0931
長崎県長崎市南山手町5-3
- TEL / FAX
-
095-823-2934
- e-MAIL
- URL
- 業種
- キリスト教会
- コメント
- 最寄り駅
- 長崎電軌大浦支線 石橋 220m
- 長崎電軌大浦支線 大浦天主堂 260m
- 長崎電軌大浦支線 大浦海岸通 410m
- 周辺情報
- 大浦天主堂 教会
- 長崎南山手美術館 美術館
- ラオックス長崎グラバー通り店 大型専門店(電化・家電)
- ジョイフルサン大浦店 その他のスーパーマーケット
- 石橋駅(長崎電軌) 駅(路面鉄道)
- 祈りの丘絵本美術館 美術館
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- カトリック教会
- カトリック教会 では「 天主 」と呼んで教えていたためで、聖堂を「 天主堂 」(例 大浦天主堂 )、カテキズムを「公教要理」とする表現も使われたが、大正から昭和初期にかけてカタカナの「 カトリック 」を冠した新聞社・定期刊行物が現れ、1948年(昭和23年)以降は カトリック 表記が公的に採用されている。
- 大浦天主堂
- 観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、 天主堂 に登る石段横の隣接地に カトリック 大浦 教会 が建てられ、毎日のミサは 大浦 教会 で行われている。 1862年(文久2年) 12月 - フランスのパリ外国宣 教会 宣教師で日本教区長のジラール神父の命により、横浜にいたフランス人 司祭 (神父)フューレが長崎に赴任。 司祭館 と 教会 堂の建築準備に着手。
- ルイ・テオドル・フューレ
- に横浜へ赴く。1863年(文久3年)日本宣教区長であったジラール神父に命じられ長崎へ。外国人居留地 大浦 の南山手乙一番地に土地を購入し、 司祭館 を建設。 大浦天主堂 の建築に取り掛かる。同年10月、 大浦天主堂 の建設をプティジャン神父に引き継ぎ、帰国。心身の疲労から1ケ年の休暇を願い出ていた。1865年(慶
- ベルナール・プティジャン
- 大浦 で死去し、 大浦天主堂 内に埋葬された。 大浦天主堂 は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は「フランス寺」「南蛮寺」と呼び見物に訪れた。プティジャンは訪れる日本人に 教会 を開放し、自由に見学することを許していた。本来は居留フランス人のために建てられた 天主堂
- マルク・マリー・ド・ロ
- 1898年 - 出津の野道に共同墓地を新設。 1914年11月7日 - 大浦天主堂 にて死去。 1915年 - 大浦天主堂司 教 館 竣工。 ド・ロ神父記念 館 旧羅典神学校(国の重要文化財)- 日本における最初の作品 旧 カトリック 長崎大司教 館 (県文化財)- 生涯最後の作品 道の駅夕陽が丘そとめ(特産物として「ド・ロ様そうめん」を販売している)
- カトリック浦上教会
- の南の東山手・南山手に居住区を作り、その一角に1865年(元治2年)に 大浦天主堂 が建てられた。それを知った浦上の住民は 大浦 に赴任した 司祭 のベルナール・プティジャン神父に密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会への カトリック 信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト
- 長崎カトリック神学院
- 1952年(昭和27年) - 浦上 天主堂 に程近い長崎市橋口町(現在の カトリック 長崎大司教 館 の位置)に移転。 1989年(平成元年) - 隣接する現在地に移転。学校名を現在の長崎 カトリック 神学院に改める。 開校当初は入学から 司祭 叙階までのすべての教育課程を行っていたが、現在は大神学校(日本 カトリック
- 今村天主堂
- 今村 天主堂 (いまむらてんしゅどう)は、福岡県三井郡大刀洗町大字今にあるキリスト教( カトリック )の聖堂である。今村 教会 堂(いまむらきょうかいどう)などの名でも呼ばれる。1913年(大正2年)に竣工した赤煉瓦造りの 天主堂 (鉄川与助設計)は、国の重要文化財に指定されている。 この聖堂を現用している カトリック
- プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール
- カトリック教会 建設のための租借権を取得。同年12月、攘夷運動を避け、英仏の領事館は横浜へ移転。ジラールも横浜に移り、教区長 館 及び 天主堂 の建築に着手。文久元年12月(1862年1月)に完成して、聖心 教会 と名付けられた(後に移転し、山手 教会 として現在司教座聖堂)。この 教会
- エミール・ラゲ
- 天主堂 の建築を竣工させる。1920年(大正9年)9月まで同教区に在籍。1924年(大正13年)頃には、長崎 大浦天主堂 に隠棲。1925年(大正14年)、日仏文化交流への貢献に対し、日本政府より勲五等旭日章が贈られる。1928年(昭和3年)、老衰のため東京大森の訪問童貞 会 修道院に隠退。1929年(昭和4年)、東京で死去。
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