寂円寺
基本情報
- 所在地
- 〒112-0001
東京都文京区白山4丁目37-30
- TEL / FAX
-
03-3941-1791
- e-MAIL
- URL
- http://www5b.biglobe.ne.jp/~jyakuen/
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 都営三田線 千石 550m
- 都営三田線 白山 560m
- 東京メトロ南北線 本駒込 680m
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- 寂円寺
- 寂円寺 (じゃくえんじ)は、東京都文京区にある真宗大谷派系(浄土真宗東本願寺派)の単立寺院。 1635年(寛永12年)、慶念によって開山された。 元々は神田御弓町(現・東京都文京区本郷)に位置していたが、1688年(貞享5年)に現在地に移転した。 当寺の主な檀家は武家であったため、明治の廃仏毀釈と士
- 乙骨耐軒
- 年)友野霞舟とともに徽典館初代学頭。安政2年(1855年)江戸に戻り海防掛目付に転ずるが、安政の大獄で天守番に左遷された。享年54。墓所は小石川の 寂円寺 。 著作に「遊御岳記」「読瀛奎律髄刊誤条記」などがある。山梨県立文学館に「乙骨耐軒文書」が所蔵されている。 「日本人名大辞典」講談社 2001年 「徳川幕臣人名辞典」東京堂出版
- 今井邦子
- として、母として、歌人として、そして何よりも一人の女として、理性と熱情の間で激しく揺れ動く、美貌で勝気な歌人であった。今井家の菩提寺である小石川・ 寂円寺 に埋葬され、後に静岡県、富士霊園に移葬された。戒名は歌葉院釈往詣楽邦大姉。下諏訪町に今井邦子文学館がある。 今井邦子文学館 -
- 大辻伺郎
- と思っていた奴だ。彼は仕事が始まる初日には背広にネクタイをキチッとしめ挨拶をする男だった」と言っている。 大辻の死から5日後の5月26日、文京区の 寂円寺 で「大辻伺郎を偲ぶ会」が開かれ、伴淳三郎、小松方正、藤村俊二をはじめ、早稲田大学演劇科時代の友人らが駆けつけた。 女経(1960年、大映)第2話 物を高く売り付ける女
- 無関普門
- 上氏の一族で、生母が越後平氏の出身であったため、越後国で養育される。 13歳の時、越後国正 円寺 で出家して剃髪。塩田流北条氏の治めていた信濃国塩田荘(現・長野県上田市)の講席に列し、数年後正 円寺 に戻り叔父の 寂円 に仕えた。19歳のときに上野国長楽寺で栄朝から菩薩戒を受けている。その後、関東や北越の講席
- 出湯温泉
- 在の出湯駐在所後方のあたりに集落をかまえていた。 1230年頃 - 無関普門禅師(大明国師)来村。無関普門が幼年期過ごした村松町:正 円寺 僧: 寂円 は大見氏の出であり 寂円 は叔父に当る。当時の寺主 本智和尚無関普門禅師の聡明さに驚きその席を譲る。 1283年 弘安6年 - 「越後文書:行定書状」のなかでは出湯温泉は「温川条」と呼ばれていた。
- 鈴木春山
- しかし、こうしたさなかの弘化3年(1846年)5月、腸チフスにかかって死去した。享年46歳。遺骸は江戸・小石川原町(現在の文京区白山)の 寂円寺 へ、衣鉢は田原・龍泉寺に葬られた。春山の翻訳事業は高野長英に引き継がれ、『三兵答古知幾』として結実した。大正2年(1913年)、生前の功績で正五位に叙せられている。
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