西源院
基本情報
- 所在地
- 〒616-8001
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
- TEL / FAX
-
075-462-4742
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京福北野線 龍安寺 740m
- 京福北野線 等持院 820m
- 京福北野線 妙心寺 890m
- 周辺情報
- 龍安寺 花の名所
- 大珠院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
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- 龍安寺
- ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔。1970年(昭和45年)8月建立。 涅槃堂(納骨堂) 桜苑 梅枝庵 玄々庵 西源院 - 妙心寺塔頭。湯豆腐と精進料理を提供している。かつては龍安寺の塔頭であった。 大珠 院 - 妙心寺塔頭。 真田信繁(真田幸村)の墓 霊光 院 - 妙心寺塔頭。 お犬の方の墓 佐治一成の墓 鏡容池(国の名勝) -
- 早田宮
- 『こころと美~その周辺~』(大本山円満 院 門跡 1980年) 『加越能文庫』金沢市玉川図書館近世資料館 『公卿補任 第二編』(吉川弘文館 2001年新装版第一刷) 『日本荘園大辞典』(東京堂出版 1997年) 『鎌倉遺文 古文書編第14巻』(東京堂出版 1978年) 『軍記物語研究叢書第二巻 未刊軍記物語資料集2~ 西源院 本太平記
- 太平記
- 利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、 西源院 本などの諸種がある。 表題の「太平」は、平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている[要出典]。
- 勾践
- その後も1979年までに三振りの勾践の剣が発見された。 なお、夫差の矛『呉王夫差矛』も同じ湖北省で見つかっている。 『太平記』巻第4「呉越闘事」( 西源院 本の事書)には、後醍醐天皇が隠岐に流される途上、臣下の児島高徳が美作・杉坂の宿の庭に立つ桜の樹に「天、勾践を空しゅうする莫れ
- 藤島の戦い
- 泉寺衆徒を足利勢へ寝返えらせた為に彼我の勢力は一挙に逆転した。延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、新田義貞は燈明寺(『太平記』「 西源院 本」では「東郷寺」)に3万余騎の兵を集め、黒丸城への攻撃を開始した。先の平泉寺衆徒は黒丸城支城の一つである藤島城に籠って激しく抵抗していたため、2
- 鷲尾順敬
- 1931 『本願寺聖人親鸞伝絵・蓮如上人御一生記絵抄』校訂 東方書院 1931 『日本仏教図像選』東方書院 1933 『写経実習帖』編修 大日本写経会 1935 『太平記 西源院 本』校訂 西源院 本太平記刊行会 1936 INBUDS>鷲尾順敬 著作集 国立国会図書館デジタルコレクション 表示 編集
- 建仁寺
- 明治時代の廃仏毀釈により多くの塔頭が失われ、現在は14 院 が残る。 正伝永 源院 (しょうでんえいげんいん) - 建仁寺の真北に位置する。前身は正伝 院 ・永 源 庵であり、かつては別個の塔頭であった。 正伝 院 (しょうでんいん) - 鎌倉時代の創建、開山は建仁寺12世義翁紹仁。当初は祇園
- 特芳禅傑
- 法嗣に大休宗休、九庵宗鑑、天釈禅弥(大徳寺57世)、稜叔智慶、鄧林宗棟らがいる。大休宗休の開いた妙心寺霊雲 院 は特芳禅傑を勧請開山としており、霊雲 院 を本庵とする霊雲派の開祖とされている。示寂後にまとめられた語録に『 西源 特芳和尚語録』がある。 『新版禅学大辞典』 『妙心寺 650年の歩み』
- 范蠡
- 范蠡の見事な活躍と出処進退は後世の憧れとなり、好敵手の伍子胥と共に長く語り継がれている。 范蠡は日本でも名臣として有名である。『太平記』巻第4「呉越闘事」( 西源院 本の事書)には、後醍醐天皇の臣児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という句を贈ったという話がある。後醍醐天皇を勾践にたと
- 恒良親王
- 二十日付得江九郎(頼員)軍忠状、前田育徳会尊経閣文庫所蔵)、私年号を用いるだけの権威を持った人物が北陸にいたことを示している。龍安寺所蔵『太平記』 西源院 本の巻25奥書には「京方貞和元年乙酉、南方白鹿元年と号す」とあり、白鹿元年は貞和元年(1345年)であることがわかる。恒良と白鹿年号を関連付ける確
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