雑華院
基本情報
- 所在地
- 〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町55
- TEL / FAX
-
075-461-1987
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京福北野線 妙心寺 420m
- 京福北野線 龍安寺 480m
- 京福北野線 等持院 540m
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- 大野治長
- 『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ)演:今井朋彦 『どうする家康』(2023年、NHK大河ドラマ)演:玉山鉄二 [脚注の使い方] ^ 南陽 院 殿凉巌受招大禅定尼。『妙心寺 雑華院 過去帳』による大野修理内儀の法名。妙心寺 雑華院 には凉巌受招信女像の絵がある。 ^ ただし、治純は系図に名前がなく、しばしば治長と治房だけで大野兄弟、あるい
- 三の丸殿
- に樽や紙、布などを送ったという記録がある。 慶長8年(1603年)に死去した。法号は韶陽院殿華厳浄春大禅定尼。墓所は京都の妙心寺。 妙心寺の塔頭・ 雑華院 に肖像画が残されており、没後間もなく描かれたものと思われ、豪華な小袖の内掛姿から当時の風俗が知られる。 戦国艶物語 (1969年・朝日放送 演:三浦徳子)
- 妙心寺
- 認したあと、往復はがきでの正式な申し込みが必要である。 慧照 院 (右京区花園坤南町) - 元和9年(1623年)、開基松平忠昌が妙心寺103世瑞雲宗呈を開祖として創建。1878年(明治11年)、 華 嶽 院 を合併している。聖澤派に属する。 龍 華院 (右京区花園坤南町) -
- 祖心尼
- 雑華院 住職で叔父の一宙禅師の元へ身を寄せる。この時、妙心寺寿聖 院 にいた石田三成の長男、宗亨(石田重家)に帰依し、禅を学んでいる。やがて、会津藩主蒲生忠郷の重臣町野幸和と再婚して娘のおたあが産まれる。慶長18年(1613年)、幸和と親しかった仕置家老の岡重政が忠郷の母正清 院
- 大愚宗築
- に美濃国乾徳寺において、南泉寺3世状元祖光により出家する。師の亡き後はその法嗣で兄弟子でもある美濃国南泉寺4世智門玄祚について学んだ。また、妙心寺 雑華院 の一宙東黙の下にも参禅している。 慶長11年(1606年)、愚堂東寔や雲居希膺らとともに虎哉宗乙などの当時の名だたる禅僧の下を訪れるため諸国を行脚
- 霊松院 (岐阜市)
- 霊松 院 (れいしょういん)は岐阜県岐阜市岩崎にある臨済宗妙心寺派(東海派 雑華院 下)の寺院で、山号は瑞巌山。美濃四国60番札所である。 寺伝によれば応永4年(1396年)に無文元選が開いた故地であると伝わるが、寺伝の他に証するものがなく不明である。寛永17年(1624年)に松江天倫寺の石翁玄需が当地の深
- 林泉寺 (山県市)
- 雑華院 下)の寺院で、山号は天照山。美濃新四国73番札所。なお、山県市片原にも臨済宗妙心寺派(東海派隣 華院 下)の林泉寺がある。 元亀元年11月19日(1501年12月17日)に祖椿首座が林泉庵として開創した。その後衰退の憂き目に遭うが慶安2年(1649年)4月松柏玄長首座により再興され、霊松 院
- 吉祥寺 (山県市)
- 吉祥寺(きっしょうじ)は岐阜県山県市岩佐にある釈迦如来を本尊とする黄檗宗の寺院で、山号は水上山。美濃新四国75番札所。なお、山県市西深瀬には臨済宗妙心寺派(東海派 雑華院 下)の同名寺院がある。 寛文12年春(1672年)に富岡村の元真善士が黄檗宗の高僧潮音道海に帰依して一宇を建立、三哲覚照を開山に迎えたという。その
- 土方稲嶺
- 条派の大画面構成法を学び取っていった。そのためか、宋紫石門下では珍しく障壁画や屏風絵の大作を多く残しており、 雑華院 (妙心寺塔頭)の襖絵「柳鴛図」「竹林七賢図」「波岩図」「孔雀図」14面、春光 院 (妙心寺塔頭)の襖絵「武陵桃源図」など15面、大法院(妙心寺塔頭)障壁画「叭々鳥図」13面、兵庫県養父市の祐
- 梅原真隆
- 「雲水日録」(専長寺文書伝道部道発行所、1956年) 「啓けゆく道」(永田文昌堂、1959年) 「 雑華 雲」(永田文昌堂、1962年) 「宗教に生きる」(宝文館、1965年) 「真宗の本尊」(百 華 苑、1966年) 「みちびかれて生きる」(教育新潮社、1960年) 「歎異抄―正しい味わい方―」(教育新潮社、1964年)
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