総見院
基本情報
- 所在地
- 〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町59
- TEL / FAX
-
075-492-2630
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 総見院
- 総見院 (そうけんいん)は、日本の寺院の名称。 總 見院 - 愛知県清須市にある臨済宗妙心寺派の寺院。織田信長ゆかりの寺院。 総見院 (京都市) - 京都府京都市北区にある臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭寺院。織田信長墓所のひとつ。 総見 寺(曖昧さ回避/いずれも織田信長ゆかりの寺院)
- 総見院 (京都市)
- もしくは五男)で、秀吉の養子でもある羽柴秀勝が務めた。 当 院 はその後、信長の一周忌に間に合うように、天正11年(1583年)に信長の追善菩提のために秀吉が大徳寺の塔頭として、また大徳寺117世の古渓宗陳を開山として、名称は信長の戒名「 総見院 殿贈大相国一品泰巌大居士」からとって建立された。本尊は、焼
- 織田高重
- 高重は旗本寄合に所属し、元和3年(1617年)5月26日には、近江国愛知郡に代えて神崎郡に領地を与えられる。寛永12年(1635年)、宇治橋の新造奉行を務める。 寛文元年(1661年)3月24日、死去。享年60。墓地は大徳寺 総見院 と東海寺清光 院 にある。 父:織田信高 母:光秀 院 - 佐々成政娘 正室:能勢頼次四女 長男:織田一之
- 織田秀雄
- 慶長15年(1610年)8月8日、京都で父に先立って死去、享年28。正室・子女ともにいなかった。 京都の大徳寺塔頭 総見院 に葬られた。東京都文京区の大円寺には供養塔がある。 ^ 『寛政重脩諸家譜 第3輯』 國民圖書(1923年)、559p ^
- 羽柴秀勝
- 院 は存命で、これを看取った。 墓所は、織田信長の菩提寺として秀吉が建立した大徳寺の 総見院 と、知恩寺瑞林 院 (浄土宗)、高野山(真言宗)、阿弥陀寺の四ヵ所に存在した。法名は、 総見院 過去帳では瑞林 院 殿賢岩才公大禅定門で高野山の過去帳では大善 院 松貞圭岩大居士。 秀勝の姿を伝える木像が、前述の知恩寺瑞林 院
- 濃姫
- 総見院 で於鍋の方の隣に葬られた養華 院 が、信長の妻の1人として葬られていることは確かであるが、それを濃姫であると断定するまでにはまだ検討の余地がある。 濃姫は、斎藤道三の娘で、母は正室の小 見 の方。『美濃国諸旧記』では、小 見
- 織田信貞 (左京亮)
- 寛永元年(1624年)に死去。享年51。 京都市東山区にあった上行寺に葬られたが、同寺は1914年に久遠寺と合併し、上行山妙祐久遠寺と改称した。墓地は織田家の菩提寺である京都大徳寺塔頭 総見院 にもある。 室は信長妹と津田元嘉との間の女であり、いとこ同士の婚姻にあたる。 家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが
- 織田信高
- たために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。 慶長7年(1603年)12月12日、死去。享年28。墓地は、京都の大徳寺 総見院 にある。 一般的には信長とお鍋の方の長子とされるが、裏付ける証拠としては、小倉氏の旧領山上に所領を与えられたことなど少ない。
- 總見寺
- 名古屋市 (2012年10月19日). 2013年5月25日閲覧。 清洲越し 臨済宗妙心寺 遠景山總 見 寺(織田信長が建立した安土城下の寺) 興聖山總 見院 (清洲越し以前の地に再興された寺) 大徳寺塔頭 総見院 (豊臣秀吉が信長の法要を行った寺) 織田信長と織田一族ゆかりの史跡 歴史の足跡(詳細な周辺地図を掲載)
- 7月20日
- ロロがシャルトルを包囲。 1402年 - アンカラの戦い。 1583年(天正11年6月2日) - 羽柴秀吉が織田信長追善のために建立した京都紫野の大徳寺 総見院 で、織田信長一周忌の法要が営まれる。 1656年 - 北方戦争: ワルシャワの戦いが終結。 1793年 -
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