三玄院
基本情報
- 所在地
- 〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町76
- TEL / FAX
-
075-492-5039
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京都市烏丸線 北大路 1180m
- 京都市烏丸線 鞍馬口 1430m
- 京都市烏丸線 今出川 1940m
- 周辺情報
- 大本山大徳寺宗務本所 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 京都市立紫野高校 高校
- FOOD SHOPエムジー大徳寺店 その他のスーパーマーケット
- 京都市立紫野小学校 小学
- 龍源院庭園 名所・観光地等
- 大仙院庭園 名所・観光地等
- JA京都市大宮支店 銀行その他
- 京都市北消防署大徳寺消防出張所 消防分署、出張所
- 北大路通 道路名
- 大徳寺保育園 保育所
- 京都信用金庫北大路支店 信用金庫
- 待鳳保育園 保育所
ウィキペディア検索
- 圓徳院
- 院 に山水図32面が、京都楽美術館に松林山水図4面が、それぞれ分蔵されている。等伯はかねてより 三玄院 で襖絵を制作するを懇願していたが、住持春屋宗園は修業の場に絵は不要と相手にもしなかった。ある時宗園が2か月ほど留守をすることを知った等伯は、この時ぞとばかりに 三玄院
- 春屋宗園
- 井宗久・千利休などの茶人や数々の戦国武将や貴人と交わった。塔頭として 三玄院 、龍光 院 、筑前博多の崇福寺などを開山している。 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、 三玄院 の建立以来親交があった宗園に住職の派遣を依頼した。宗園は弟子の薫甫宗
- 石田三成
- 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の 三玄院 に葬られた。 三成は秀吉直下の奉行としてさまざまな政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)と地
- 石田正澄
- 景のゆかりの品として現在も杵築城で展示されている。 生前に帰依していた春屋宗園により、石田正澄と三成の位牌と供養塔が大徳寺の 三玄院 に建立されている。 父:石田正継 母:瑞岳 院 妻:不詳 男子:石田朝成 男子:主水正 [脚注の使い方] ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 33 ^ a b 加藤国光
- 沢庵宗彭
- 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では 三玄院 の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、 三玄院 の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した。春屋が薫甫を住職に任命し
- 土居次義
- 宝・狩野永徳」筆とされてきたものが無名の絵師の作にされては叶わないと、寺の出入を禁止されたという話が残っている。一方で、親しく出入りしていた大徳寺 三玄院 では住職から長谷川等伯についての興味深い逸話を聞き、その襖絵が明治期に高台寺円徳院に売られたと聞いて、その足で円徳院に向かい等伯の襖絵を発見した。
- 大徳寺
- 総見 院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。明治11年大徳寺本寺に合併されたが、大正期に再興された。 黄梅 院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。明治11年昌林庵と合併。 三玄院 -
- 森長氏
- 天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、信長に最後まで従って明智軍相手に奮戦したが、討ち死にした。享年15。 墓所は阿弥陀寺と大徳寺 三玄院 、可成寺(岐阜県可児市)などにある。法名は阿弥陀寺では花月宗泉信士、大徳寺で一渓宗榮禅定門、本源寺(森氏菩提寺)では法雲宗心信士とされている。 森蘭丸・坊丸・力丸の墓(可成寺)
- 国師
- 古嶽宗亘(1577- 1626)大徳寺大仙 院 開祖。 大通智勝国師 - 快川紹喜(- 1582)乾徳山恵林寺。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の句は有名。 大円宝鑑国師 - 愚堂東寔(1577- 1661)正法山妙心寺開祖。 大宝円鑑国師 - 春屋宗園(1529- 1611)大徳寺 三玄院 開祖。 円照本光国師 - 以心崇伝(1592-
- 長谷川等伯
- に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭 三玄院 の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年(1590年)、前田 玄 以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しよう
企業データ
PAGE TOP