西雲院
基本情報
- 所在地
- 〒606-8331
京都府京都市左京区黒谷町121
- TEL / FAX
-
075-771-3175
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 京都市東西線 東山 1360m
- 京阪本線 神宮丸太町 1440m
- 周辺情報
- 金戒光明寺 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
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- 西雲院
- オープンストリートマップに 西雲院 の地図があります。 西雲院 (さいうんいん)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。大本山金戒光明寺の塔頭。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称の「紫雲石(しうんせき)」で知られる。 当 院 は、元和2年(1616年)4月8日に朝鮮の出身で、文禄・慶長の役の際に日本に連
- 会津小鉄 (幕末)
- 養子にした。1872年(明治5年)に妻(1851年?~1919年)を迎え1子を儲けたが、21歳で家出をして行方不明になった。 墓は洛東の金戒光明寺 西雲院 にある。 1833年(天保4年)頃 - 元水戸藩士と、大阪 島之内に店を構える太物商の娘の間に私生児として生まれる。 1835年(天保6年)頃 -
- 紫雲石
- 西雲院 に安置されている。 承安5年(1175年)の春に浄土宗の開宗を決めた法然は、比叡山の黒谷を下った。そしてこの地にやってくると岡に上り、大きな石を見つけてそこに腰を掛けた。 すると、その石から紫の 雲 が立ち上って大空を覆うと、 西
- 興雲院
- 興 雲院 (きょううんいん、? - 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。 近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女
- 瑞龍寺 (岐阜市)
- 山号は金寶山。 臨済宗妙心寺派の坐禅修行の出来る専門道場であり、雲水(禅の修行僧)の修行の場である。 総門を入ると参道の右に瑞 雲院 、鶴棲 院 、臥 雲院 。左に、天澤 院 、開善 院 、雲龍 院 の6つの寺(塔頭)がある。一番奥には雲水の修行道場である僧堂がある。 境内には、斎藤妙椿(斎藤利藤とは別人が有力)、土岐成頼、悟渓国師の墓がある。
- 白川顕成王
- なる。2年後には父・雅朝王より神祇伯職を譲られる。その後従四位上まで昇叙したが、公卿となることのないまま、伯の在任中に卒去した。享年35歳。法号は 西雲院 繊月乗船。 慶長7年1月6日(1602年2月27日)、従五位下 慶長8年11月28日(1603年12月30日)、侍従 慶長10年1月6日(1605年2月23日)、従五位上
- 宗厳
- 宗厳(そうごん、天正3年(1575年)? - 寛永5年(1628年))は、李氏朝鮮の人物。日本で出家して僧となり、 西雲院 を開山した。 豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役の時に秀吉の家来の小野木重勝に捕らえられて、日本に連れてこられた。縁起に「宗厳天質、陰茎至小にして男事すでに絶つ」とある。そのためや
- 妙心寺
- 雲 派に属する。 天祥 院 - 開基は松平忠弘、開山は乳峯義元。正保2年(1645年)に創建された。1878年(明治11年)、慈性 院 を合併している。龍泉派に属する。 春光 院 - 開基は堀尾吉晴。重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘と狩野永岳の方丈襖絵を所有。龍泉派に属する。 徳 雲院 -
- 金戒光明寺
- 院 熊谷堂と改称した。 永運 院 - 御影堂の 西 にある塔頭。普段は非公開だが、申し込めばイベント等で使用することができる。 西 翁 院 - 永運 院 の 西 にある塔頭。 常光 院 - 通称「八はしでら」。 金光 院 松樹 院 勢至 院 浄源 院 善教 院 光安寺 超覚 院 西 住院 瑞泉 院 長安 院 龍光 院 顕岑 院 栄摂 院 西雲院
- 龍光院 (京都市左京区)
- 院 」から名を取り、塔頭の名を龍光 院 とし、菩提を弔うことにした。息女の召使いは、息女が亡くなったのち出家し、宗厳と名のった。彼は長い修行の後、再び黒谷の地に戻ってきて、龍光 院 墓地の息女の墓の前で、念仏をひたすら唱えていた。宗厳はのち 西雲院
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