延仁寺
基本情報
- 所在地
- 〒605-0955
京都府京都市東山区今熊野総山町2
- TEL / FAX
-
075-561-4379
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京阪本線 東福寺 1260m
- JR奈良線 東福寺 1290m
- 京阪本線 鳥羽街道 1600m
- 京阪本線 七条 1690m
- 周辺情報
- 京都市立東山泉中学校(東学舎) 中学
- 京都女子大学 大学院・大学
- 京都市立日吉ケ丘高校 高校
- 醍醐道 道路名
- ゲストハウス東山じゃお 民宿
- 今熊野観音寺 全国巡礼名所(西国三十三観音)
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- 延仁寺
- 延仁寺 (えんにんじ)は、京都市東山区にある真宗大谷派の寺院。大谷派では、宗祖親鸞の荼毘所とする。 本尊は、大谷派寺院としては珍しく舟型光背の阿弥陀如来立像で、阿弥陀三尊形式で安置される。 寺 伝では、天台宗の宗祖最澄が開基であるとされている。本願寺第三世覚如が著した『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』)に
- 大谷本廟
- によって本願寺の住持を隠居させられていた教如の命によって、祐誓が四条富小路に堂舎を移し、「徳勝 寺 」を建立した。 慶長8年(1603年)、祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞を荼毘に付したといわれる「 延仁寺 」の旧地と伝えられる鳥部山に家康から大谷道場の代替地を拝領すると、残されていた親鸞の墓をそこに
- 建仁寺
- 延 暦 寺 の勢力が強大で、禅 寺 を開くことは困難であった。栄西は初め九州博多に聖福 寺 を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福 寺 の開山となる。 その2年後の建 仁 2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を 寺
- 大谷祖廟
- 荼毘の地については、親鸞の曾孫で本願寺第三代覚如の『御伝鈔』に「鳥部野の南の辺、 延仁寺 に葬したてまつる」と記されている。大谷派は、「 延仁寺 」(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。現在の「 延仁寺 」は、第二十一代嚴如が再興したものである。 文永9年(1272年)に、東国にいる親鸞の
- 覚如
- 別当職は、覚如の次男の従覚の子、善如が継承する旨の譲り状を記す。 観応2年1月19日(1351年2月23日)、82歳(数え年)にて覚如入滅する。 延仁寺 に送葬される。 覚如撰述 『報恩講私記』 『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』・『親鸞伝絵』) 『拾遺古徳伝』 『執持鈔』 『口伝鈔』 『本願鈔』 『改邪鈔』
- 親鸞
- ^ 本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟〈西大谷〉の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとする。大谷派は、 延仁寺 (京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている。(現在の 延仁寺 は、東本願寺第二十一世嚴如が再興したもの。) ^ 見真大師 - けんしんだいし ^ 浄土真宗の教章 -
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- 明菴栄西
- 正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福 寺 の住職に招聘。 建 仁 2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建 仁寺 を建立。建 仁寺 は禅・天台・真言の三宗兼学の 寺 であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。 元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。
- 臨済宗
- - 三聖慧然・興化存奨 - 南院慧顒 - 風穴 延 沼 - 首山省念 - 汾陽善昭 - 石霜楚円(慈明禅師) 黄龍慧南(黄龍派) 晦堂祖心 - 死心悟新・霊源惟清 - 長霊守卓 - 無示介諶 - 心聞曇賁 - 雪庵従瑾 - 虚庵懐敞 - 栄西(千光派・建 仁寺 派) 雲庵克文 - 兜率従悦・泐潭文準 東林常総
- 天台宗
- 延 暦 寺 代表役員の森定慈芳、同職の武覚超は代表委員を務めていた。現在、比叡山 延 暦 寺 代表役員の水尾寂芳が日本会議の代表委員を務めている。 義天(大覚国師、1055年-1101年)によって高麗時代の11世紀後半に伝えられた。 本山救 仁寺 (忠清北道丹陽郡) ^ a b Groner
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