桂昌院
基本情報
- 所在地
- 〒605-0981
京都府京都市東山区本町15丁目805
- TEL / FAX
-
075-561-6110
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京阪本線 鳥羽街道 290m
- 京阪本線 東福寺 670m
- JR奈良線 東福寺 680m
- 京阪本線 伏見稲荷 780m
- 周辺情報
- 鳥羽街道駅(京阪) 駅(他社線)
- 京都市立日吉ケ丘高校 高校
- 医道会稲荷山武田病院 病院(動物は除く)
- 大本山東福寺 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 東福寺保育園 保育所
- 同聚院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)
- 京都鳥羽道郵便局 中央、普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局
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- 桂昌院
- 桂昌院 (けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。光子。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正(宗利)。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。
- 高富藩
- 第5代将軍・徳川綱吉の生母・ 桂昌院 の異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永2年(1705年)3月に1万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年(1709年))、高富藩が立藩した。これはもちろん、綱吉と 桂昌院 の縁故のためである。
- 善峯寺
- 宝永2年(1705年) 桂昌院 による建立。 桂昌院 しだれ桜 - 桂昌院 お手植え。樹齢300年以上。 宝篋印塔 - 慈円によって伝教大師筆の法華経が納められている。 桂昌院 廟 - 宝永2年(1705年)建立。 桂昌院 の遺髪を納めている。 鎮守社 十三仏堂 - 元禄5年(1692年) 桂昌院 による建立。 弁財天堂
- 護国寺
- 院 大聖護国寺と称する。 天和元年(1681年)2月7日、徳川綱吉は母、 桂昌院 の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、 桂昌院 の祈願寺護国寺の建立を命じた。 本尊は 桂昌院 念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆 院
- 江戸城大乱
- 。同時に用済みとなった正俊を始末することに決める。正俊は護持 院 で 桂昌院 と面会し忠清に対抗するように勧められるが、そこに忠清の命を受けた源蔵が手下を引き連れて現れる。正俊は忠清に反逆することを決意し、護持 院 の僧隆光の助けを得て脱出する。 桂昌院 は家綱と面会して綱吉を後継者にするように説得するが、それを見
- 徳川綱吉
- 寵僧である護持 院 隆光を通じて、母の 桂昌院 と共に、奈良時代に大和国(奈良県)で鑑真が開基した唐招提寺に帰依した。南北朝時代と戦国時代の戦乱で荒廃した唐招提寺の復興に尽力し、元禄11年(1698年)には戒壇 院 の再興を行った。 正室 鷹司信子 側室 お伝の方(小谷の方・五の丸殿とも)(瑞春 院 ) 大典侍(北の丸殿とも)(寿光院)
- 足利藩
- 北条氏に追われた後には後北条氏の支配下に入っていたが、後北条氏に仕えていた長尾顕長は小田原征伐で没落した。 江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の生母・ 桂昌院 の異父弟にあたる本庄宗資(はじめは公家の家臣だった)が徳川将軍家との特別な関係のために加増が繰り返され、元禄元年(1688年)には足利1万石を領す
- 本庄宗資
- 間藩初代藩主。本庄松平家初代。はじめ公家の家臣(青侍)だったが、徳川綱吉の生母 桂昌院 の弟にあたるため、 桂昌院 の庇護を受けて大名に立身した。 摂関家の一つ二条家家臣の本庄宗正の次男。母は鍋田氏の娘。徳川綱吉の生母である 桂昌院 (徳川家光側室・お玉の方)は異父姉である。正室は隠俊実・二条家家司の娘。子は村
- 6月22日 (旧暦)
- 964年) 元久2年(ユリウス暦1205年7月10日) - 畠山重忠、武将(* 1164年) 宝永2年(グレゴリオ暦1705年8月11日) - 桂昌院 、徳川綱吉の生母・徳川家光の側室(* 1624年) 嘉永6年(グレゴリオ暦1853年7月27日) - 徳川家慶、江戸幕府12代将軍(* 1793年)
- 本庄氏
- 宗道 ┃ 宗正(宗利?) ┣━━━┳━━━━┓ 道芳 宗資 桂昌院 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━┓ 道高 松平資俊(松平本庄家) 牧野康重 ┃ ┣━━━┳━━━┓ 道章 資訓 宗長 宗胡 ┃ ┃ 道矩 資 昌 ┃ ┃ 道倫 資尹 ┃ ┃ 道堅 資承 ┃ ┣━━━┳━━━┓
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