正覚庵
基本情報
- 所在地
- 〒605-0981
京都府京都市東山区本町15丁目808
- TEL / FAX
-
075-561-8095
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京阪本線 鳥羽街道 360m
- 京阪本線 伏見稲荷 780m
- 京阪本線 東福寺 780m
- JR奈良線 東福寺 790m
- 周辺情報
- 鳥羽街道駅(京阪) 駅(他社線)
- 京都市立日吉ケ丘高校 高校
- 医道会稲荷山武田病院 病院(動物は除く)
- 京都市立稲荷小学校 小学
- 大本山東福寺 仏閣(寺、観音、不動、薬師)
- 京都鳥羽道郵便局 中央、普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局
- 東福寺保育園 保育所
- 同聚院 仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)
- 育生会第二久野病院 病院(動物は除く)
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- 養叟宗頤
- 京都出身、藤原氏の出の人物。初め大応派の拠点である福寺 正覚庵 や建仁寺天潤 庵 に依る。次いで近江の禅興 庵 の華叟宗曇に参じ、その法を継ぐ。華叟の示寂後、文安2年(1445年)に京都の大徳寺の住持となり、興隆に尽くした。その後、和泉に陽春 庵 をひらく。同門の一休宗純との対立は有名であり、坂口尚の漫画『
- 曹洞宗
- 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。 丹霞子淳の門下には、宏智 正覚 (1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智 正覚 は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089年 -
- 川端茅舍
- 茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の 正覚庵 に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。
- 足利茶々丸
- 上杉氏と結んでいた。茶々丸が明応4年に伊豆大島に退去すると、今川氏・伊勢氏は甲斐へ侵攻しており、明応5年(1496年)に茶々丸は武蔵から甲斐吉田の 正覚庵 (富士吉田市上吉田)に移って、駿河御厨地方へ進出したといわれ(ともに『勝山記』に拠る)、信縄方の勢力を結集して伊勢氏に対抗したとも考えられている。
- 従容録
- 『従容録』(しょうようろく)は、モンゴル帝国時代の仏教書。燕京従容 庵 の万松行秀編。六巻。1223年成書。 万松老人評唱天童覚和尚頌古従容 庵 録ともいう、曹洞宗で重んずる公案集で、宏智 正覚 の頌古百則に、序論的批評(垂示)、部分的短評(著語)、全体的評釈(評唱)を加える。 無門関 碧巌録 表示 編集
- 仏陀
- Buddha)は、サンスクリット語の「知る」「目覚める」を意味する動詞ブドゥ(梵: budh)の過去分詞形で、「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」、「覚者」・「智者」と訳す。「 正覚 者」のことであり、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになった。buddhaの語はインドでは、もとは諸宗教を通じて使われたものであり、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラもこの名で呼ばれたことがある。
- 五井昌久
- け弟子になる。生長の家の講師として活動を開始するが、後には生長の家から離れることになる。 1949年(昭和24年)、厳しい修行の後、空の境地(悟り、 正覚 )を体得したとする。 1950年(昭和25年)7月、結婚。 1955年(昭和30年)2月、千葉県市川市に宗教法人「五井先生鑽仰会」を設立(なお、もと
- 臨済宗
- 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。 宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智 正覚 (1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
- 東福寺
- 塔頭で、重森三玲による「波心の庭」がある。別名「虹の苔寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。公開塔頭。 正覚庵 - 正応3年(1200年)に奥州伊達家4代目当主伊達政依により創建される。毎年11月に古くなった筆の供養を行うことから「筆の寺」の通称で知られる。拝観には予約が必要。
- 月桂寺 (新宿区)
- 庵 が基になっている。その後、同 庵 は当地に移転し、円桂山平安寺となった。その後、小弓公方家・足利頼純の娘で、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた月桂院の篤い帰依を受けた。月桂院からは100石の朱印地を受け、また明暦元年(1655年)に彼女が死去した際には同寺で葬儀が行われ、寺号も 正覚
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