光源院
基本情報
- 所在地
- 〒602-8345
京都府京都市上京区七本松仁和寺街道上一番105
- TEL / FAX
-
075-462-7873
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 京都市烏丸線 今出川 250m
- 京都市烏丸線 鞍馬口 900m
- 京阪本線 出町柳 1460m
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- 佐竹義明
- 父:佐竹義道(1701年 - 1765年) 母:昆、明鏡院 - 佐竹義長の娘 養父:佐竹義真(1728年 - 1753年) 正室:直( 光源院 )(1729年 - 1748年) - 佐竹義峯の娘 長男:佐竹義敦(1748年 - 1785年) 側室:林氏 次男:佐竹義方(1754年 - 1809年)
- 杉原盛重
- 元亀2年(1571年)、浄満原(現在の大山町上万)で尼子氏残党と戦う。(『陰徳太平記』) 天正元年(1573年)、 光源院 に足利義輝の焼香料として伯耆国興恩寺を寄進。(『 光源院 文書』) 天正9年(1581年)、大山寺西明院に伯耆国久古荘(現在の伯耆町久古)を寄進(『大山寺文書』)。伯耆国八橋城にて没す。(『伯耆民談記』)
- 立本寺
- 立本寺(りゅうほんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が4か院ある(正行院、教法院、 光源院 、大輪院)。 日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。暦応4年(
- 佐竹義峯
- 長女:照(蓮寿院)(1720-1786) - 松平定喬正室 次女:冨(玉鳳院)(1722-1744) - 戸田光雄正室 三女:花顔清空童女(1724-1724) - 夭折 四女:直( 光源院 )(1729-1748) - 佐竹義明正室 長男:仙壽丸(1731-1732) - 夭折 五女:壽(本清院)(1734-1798) - 松浦邦正室
- 佐竹義敦
- 正室は山内豊敷の娘・賀。子は長男・義和、娘・敦(島津斉宣正室)ら4男6女。 父:佐竹義明(1723-1758) 母:直( 光源院 )(1729-1748) - 佐竹義峯の娘 正室:賀(貞明院)(1745-1810) - 山内豊敷の娘 長女:豊(芳春院)(1773-1776) -
- 相国寺
- 特に鳥羽伏見の戦い)に関わって亡くなった方を弔ったものである。 光源院 - 応永28年(1421年)に創建された。永禄の変で三好義継と松永久通らの軍勢に襲撃され亡くなった室町幕府13代将軍の足利義輝の菩提寺となり、義輝の院号から 光源院 と名付けられた。昭和63年(1988年)に再建された本堂には、室
- 北条氏規
- 氏規は永禄5年(1562年)6月から永禄7年(1564年)6月8日の間に小田原に帰還した。 永禄9年(1566年)頃(とみられている)、『 光源院 殿御代當参衆並足軽以下衆覚』に、父・氏康、当主で兄の氏政とともに室町幕府将軍家直臣として氏規の名前があり、この時点でも氏康の次男的地位と位置づけられている。
- 石成友通
- 2年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、 光源院 から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「 光源院 文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・
- 大慈寺 (盛岡市)
- 大慈寺(だいじじ)は、岩手県盛岡市大慈寺町に所在する黄檗宗寺院。山号は福聚山。本尊は如意輪観音。盛岡藩主南部行信の娘・ 光源院 や第19代首相原敬の墓所。盛岡観音三十三箇所第6番札所で盛岡三十三観音の第6番である十一面観音を祀る。開基は徳真道空。京都萬福寺の末寺。
- 山名氏之
- 。例として挙げるならば応永4年(1397年)の『三宝院文書』所収「山名氏之遵行状」などがあり、時代は下るが天文18年(1549年)の成立とされる『 光源院 文書』の「伯州山名代々次第」にも「大膳大夫氏之」と記されている。加えて氏之以降の伯耆山名一族が「之」を通し字としていることも踏まえると「氏之」の表記の方が本来の姿に近いものと思われる。
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