饒津神社
基本情報
- 所在地
- 〒732-0057
広島県広島市東区二葉の里2丁目6-34
- TEL / FAX
-
082-261-4616 / 082-261-4619
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 神社
- コメント
- 最寄り駅
- 広島電鉄白島線 白島 420m
- 広島電鉄白島線 家庭裁判所前 480m
- 広島電鉄白島線 縮景園前 730m
- 周辺情報
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- 認定こども園二葉学園二葉幼稚園 幼稚園
- DCMダイキ安芸白島店 ホームセンター
- 二葉 結婚式場
- 常葉橋 橋・トンネル
- 城北通り 道路名
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- 中消防署白島出張所 消防分署、出張所
- 広島デンタルアカデミー専門学校 専門学校
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- 饒津神社
- 天保6年)浅野斉粛が祖先追悼のため現在地に社殿を建立し、二葉御社と称した。1873年(明治6年) 饒津神社 と改称した。その後、境内の東から東照宮参道に至る区域が「 饒津 公園」として整備された(現在の鶴羽根 神社 境内を含む)。 1945年(昭和20年)広島原爆の爆風により本殿や唐門が瞬く間に破壊され、直後に
- 広島県立美術館
- (2005年7月26日). 2014年4月14日閲覧。 ^ 『朝日新聞』大阪本社版、2017年11月14日付夕刊。これらの品は戦後厳島 神社 に奉納されていたが、2010年になって 饒津神社 に返還され、同社によって2019年の浅野長晟広島入城400年を期して公開する計画が進められている。 ^ “縮景園の8.6 4.石柱漂流”
- 鶴羽根神社
- あい、のちに戦乱にもあったため荒廃した。 近世になり復興を果たし、1835年に現在の 饒津神社 付近から、現在の位置に遷座した。 1869年、浅野長勲の撰名で「鶴羽根八幡宮」と改称。さらに、3年後の1872年「鶴羽根 神社 」と改められた。名称は背後にある二葉山が鶴が羽を広げたような姿であることから名付けられた。
- 浅野斉賢
- 藩儒・頼杏坪らに命じ、藩内の地誌『芸藩通志』を編纂させた。 文化7年(1810年)に重晟とともに浅野家初代浅野長政らを祀る新たな位牌堂を造営し、のちの 饒津神社 の前身となった。 将棋を愛好し、文化9年(1812年)10月28日に大橋宗桂(10代)を屋敷に招き、将棋を指している。
- 浅野斉粛
- 天保6年(1835年)、広島城の鬼門に位置する明星院に浅野家の初代浅野長政を祭神とする社を建立した(明治6年(1873年)に県社となり、 饒津神社 となる)。 安政5年(1858年)4月12日、長男の慶熾に家督を譲って隠居した。隠居により、通称を備後守に改める。慶応4年(1868年)正月12日
- 浅野忠純
- 父の隠居に伴い、明治9年(1876年)9月3日に家督を継ぐ。明治33年(1900年)5月9日、男爵を叙爵。大正4年(1915年)53歳で没す。 『浅野長政公伝』〔広島市〕 饒津神社 三百年祭祭典事務所、1910年。 1900年(明治33年)5月9日 - 男爵 正室 光(みつ、浅野懋績三女) - 広島新田藩主浅野長厚、侯爵浅野長之の姉妹
- 広島藩
- には打ちこわしも起こっている。第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。 第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍・徳川家斉の娘・末姫との婚儀、 饒津神社 の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行った。し
- 浅野忠敬
- (のちの本因坊秀策)を教甫に師事させ、自ら禄を与えた。栄斎はのちに江戸へ修行に行き、十四世本因坊秀和の跡目となった。 天保7年(1836年)7月、 饒津神社 (当時は二葉御社)の社殿造営に石燈籠2基を献備した。また天保12年(1841年)、広島の自邸を修繕改築した。
- 備後護国神社
- 2023年9月18日閲覧。 ^ “2.3 配置計画の検討”. 国土交通省. 2023年9月18日閲覧。 「新版 福山城」、福山市文化財協会編、2006年 ウィキメディア・コモンズには、備後護国神社に関連するカテゴリがあります。 神社一覧 饒津神社 :広島藩の藩祖および藩主(浅野氏)を祀る 神社 。 備後護国 神社 表示 編集
- 明星院 (広島市)
- その後、4代藩主浅野綱長により、始祖浅野長政夫妻の位牌を安置、また、9代藩主浅野斉粛の代に敷地の西半分に社( 饒津神社 )を建立した。 本堂内陣には原爆の被害から焼失を免れた赤穂浪士の木像が安置されている。木像は吉良邸の討ち入りを再現し、右側・大石良雄以下23名の表
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