蓮華定院
基本情報
- 所在地
- 〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町大字高野山700
- TEL / FAX
-
0736-56-2233 / 0736-56-4743
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院,宿坊
- コメント
- 最寄り駅
- 南海鋼索線 高野山 1130m
- 南海鋼索線 極楽橋 1720m
- 南海高野線 極楽橋 1810m
- 南海高野線 紀伊神谷 2900m
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- 真田幸綱
- 字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている 。「幸隆」の名に関して、『高野山 蓮華定院 過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
- 諏訪頼重 (戦国時代)
- ^ a b c 『神使御頭之日記』 ^ 「守矢頼真書留」『山資』6下所載 ^ 「高白斎記」『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載、「 蓮華定院 文書」『信濃史料』2所載 ^ 平山優『川中島の戦い』 ^ a b 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1072. ^ 『高白斎記』、『守矢頼真書留』
- 善名称院
- 院 の始まりである。また、本尊がこの地に寺院を建てよといったので、大安は昌幸の子信繁が建てた昌幸の供養塔の周りの森を松の木だけ残して伐採し、当 院 を建立したともいう。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山に配流の身となり真田氏ゆかりの 蓮華定院
- 小山田虎満
- れた起請文には虎満の名が見られず、以降は昌成が備中守を称している。 虎満の終見文書は元亀3年(1572年)付の武田家朱印状「柏木文書」で、『高野山 蓮華定院 過去帳』から没年は天正7年(1579年)10月12日であり、その死去の時まで内山城代であった。 『軍鑑』では、小山田備中守が築城した城は落城するこ
- 海野棟綱
- た。海野幸棟の子。真田幸綱(系図上では「幸隆」)は棟綱娘の子、もしくは娘婿とする説がある。 大永7年(1527年)、海野氏族の高野山参詣時の宿坊を 蓮華定院 とする契状を出す。天文10年(1541年)の海野平の戦いでは武田・村上・諏訪連合軍に敗れる。この戦いで領地と子息の幸義を失う。
- 法華経
- 中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法 蓮華 経』を所依の経典とした。 日本では正倉 院 に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。
- 真田太平記 (テレビドラマ)
- 忍び小屋となっている両替商銭屋を訪れてくる。その後、再び戦いがあった時には高野山の 蓮華定院 を頼るようにと申し渡される。どのようなことがあっても恨みに思うなという幸村に対し、「お恨みいたします」と泣き崩れた。戦後 蓮華定院 にいたところを徳川方に連行されるが、滝川三九郎が引き取る。そして三九郎の元で亡くな
- 真田頼昌
- る真田綱吉(右馬助)がいる。綱吉は「右馬助」の通称が頼昌と共通することから、頼昌の嫡男とする説がある。 また、頼昌の妻は海野棟綱の娘とされ、高野山 蓮華定院 『過去帳月坏信州小県分第一』には拠れば法名は「玉窓貞音大禅尼」で、天文9年(1540年)4月26日に死去したとされる。幸綱により高野山で供養が行わ
- 伴野氏
- 大永元年(1521年)に伴野貞祥が叔父の僧節香徳忠を開山として貞祥寺を開基した。その後、享禄3年(1530年)小笠原貞慶は、 蓮華定院 を伴野氏一族や領民の高野山詣の際の宿坊に定めているが、これは大井氏や海野氏など、他の東信濃の武家も同様であった。
- 堀川国広
- 、娘の嫁入り道具の一つとして紀州徳川家に伝わる。尚、著名な片鎌槍も嫁入り道具の一つである。 短刀 銘 国広(個人蔵) 剣 銘 国広(和歌山・高野山 蓮華定院 ) 他に重要美術品認定の刀剣が12点ある。著名な作に、沢田道円所持の身幅が極めて広い(号:道円国広)の短刀や、刀身に「夢香梅里多」の文字と布袋和尚
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