高野山青巌寺
基本情報
- 所在地
- 〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町大字高野山628
- TEL / FAX
-
0736-56-3889
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 南海鋼索線 高野山 1910m
- 南海鋼索線 極楽橋 2390m
- 南海高野線 極楽橋 2470m
- 南海高野線 紀伊神谷 3670m
- 周辺情報
- ココストアぜにや店 ココストアCOCO!
- 高野郵便局 中央、普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局
- 高野町消防本部 消防本部・消防局
- 高野山大学 大学院・大学
- 西門院 旅館
- 紀陽銀行高野山支店 地方銀行
- JA紀北かわかみ高野支店 銀行その他
- 大円院 旅館
- 小堀南岳堂 書店
- 高野山大学図書館 大学・短大・高専図書館
- 宿坊蓮花院 旅館
- 南都銀行高野山支店 地方銀行
- ゼネラル石油高野山SS ゼネラル石油
- 一乗院 旅館
- 持明院 旅館
- 別格本山金剛三昧院 旅館
- 本覚院 旅館
- 天徳院 旅館
ウィキペディア検索
- 高野山真言宗
- 寺 号を金剛峯寺とした。 青巌寺 は、建立当初は 寺 号を剃髪 寺 と称していた。興山寺は後陽成天皇より「興山寺」の勅額が下賜された勅願 寺 であった。 合併以前は、 寺 号の金剛峯寺は 高野山 全体を指す名称であった。現在のように特定の寺院を指して 寺
- 高野山
- 高野山 真言宗の総本山で座主の住寺。金剛峯寺は元は 高野山 全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に 青巌寺 と興山寺 (廃寺)の2つの寺院が合併したもの。旧 青 巖 寺 (剃髪 寺 )は文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴代天皇の位牌や 高野山
- 金剛峯寺
- 巌寺 と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、 高野山 真言宗総本山金剛峯寺と改称した。 寺 紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である。 青巌寺 は、文禄2年(1593年)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪 寺
- 大政所
- 高野山 に登らせ、剃髪 寺 (後の 青巌寺 だが万延元年に焼失)を創立して木食応其を開基とした。また 高野山 には1万石が寄進された。秀吉は8月6日に大徳寺で法要を行い、翌日、蓮台野で荼毘に付した。後陽成天皇は、勅使を遣わして仲に准三后を追号した。 墓所は大徳寺内天瑞 寺 、 高野山青巌寺 、山科本国 寺
- 木食応其
- (廃寺)、 青巌寺 、奥院灯籠堂 高野山 寺領(荒川荘) 三船神社、鞆淵八幡神社、興山寺 京都 方広寺(大仏殿、中門)、東寺(塔、講堂、御影堂、灌頂院)、醍醐寺(金堂、塔)、清滝権現、安祥 寺 、誓願寺、清水 寺 、清凉寺、三十三間堂、平等院 その他 石山寺、東大寺、室生寺、善光寺、厳島神社 応其は多くの 高野
- 青岸渡寺
- によって熊野那智大社から天台宗の寺院として独立し、新たに「 青 岸渡 寺 」と名付けられて復興した。 寺 号は豊臣秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた 高野山 の 青巌寺 に由来するといわれる。 明治初期の神仏分離で熊野那智大社の行者堂は取り壊されたが、 青 岸渡 寺 の境内に再建され、2023年(令和5年)10月21日に落慶法要が営まれた。
- 青巌寺
- 青巌寺 (せいがんじ)は、明治2年(1869年)まで 高野山 上に存在した寺院。現金剛峯寺境内の東部にあった寺院で、学侶方の寺務をつとめた中心寺院であったが、西隣にあって行人方の役 寺 であった興山寺 (廃寺)と合体して金剛峯寺となっている。現在では 高野山 真言宗の管長・座主の住坊である。
- 豊臣秀次
- 兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている。また 青巌寺 (現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では“関白秀次自刃の間”として知られる。 秀次及び同日切腹した関係者の遺体は、 高野山 奥の院の千手院谷、光台院の裏の山に葬られ、福島正則は首だけを検分のために伏見に持ち帰った。
- 興山寺 (廃寺)
- 寺 に伝来した文書は興山寺文書とよばれ、貞応元年(1222年)5月12日の太政官符をはじめ多数伝えられている。 明治2年(1869年)に学侶、行人、聖の 高野 三方を解消した時に 青巌寺 と合併して金剛峯寺となった。明治19年(1886年)にはこの地に 高野山 大学林が開設され、現在は金剛峯寺奥殿が建てられている。
- 紀州征伐
- 高野山 の存続が保証された。その後、10月23日までには 高野山 の武装解除が完了した。 この結果 高野山 は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された。また木食応其個人に1,000石が与えられた。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪 寺 (のち 青巌寺
企業データ
PAGE TOP