本覚院
基本情報
- 所在地
- 〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町大字高野山618
- TEL / FAX
-
0736-56-2711 / 0736-56-2784
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
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- 本覚院
- 兵庫県相生市那波大浜町にある寺院、善光寺の 院 号。 広島県廿日市市にある日蓮宗の寺院。山号は広栄山。 本覚 寺 (広島市)の末寺。 本覚院 (廿日市市)を参照。 福岡県福岡市中央区にある宗教法人 本覚院 別院 本 連結社 長崎県佐世保市にある仏教寺院。 佐賀県佐賀市にある仏教寺院。 本覚 寺
- 二条良実
- 二条師忠の養子となり、本家を継ぐ。 男子:二条経忠 男子:道玄 (1237-1304) - 青蓮 院 10代門跡、天台座主、准三后 男子:道瑜 (1256-1309) - 園城寺長吏、熊野三山検校、准三后 男子:尋源 - 本覚院 門跡 男子:道潤 - 天台座主、 本覚院 門跡 男子:良宝 男子:道乗 女子:三条公親の養女、徳大寺公孝室、実孝母
- 妙法院
- 『華頂要略』等の記録によると、比叡山三塔のうちの西塔に所在した「 本覚院 」が妙法院の起源とされている。しかし、妙法院と 本覚院 の関係は必ずしも明確でなく、 本覚院 から分かれて妙法院が成立したとする説、逆に妙法院から 本覚院 が分かれたとする説、妙法院は 本覚院 の別号だとする説などがある。また、妙法院が比叡山から洛中に
- 本覚克己流
- 本覚 克己流(ほんがくこっきりゅう)は弘前藩で創始され、伝えられてきた柔術の流派。 創始者は弘前藩士添田儀左衛門貞俊。心極流、及び荒木流など諸流派の技を基に、弟子の津軽玄蕃とともに工夫を加えて創始された。 中でも心極流の影響を強く受けており、流祖を心極流の創始者である宮川夢仁斎秀正(秀政)としている。
- 良快 (僧)
- 良通・九条良経がいる。通称は飯室僧正・妙香 院 僧正・ 本覚院 僧正。 慈円や尊忠、 覚 什に学び、慈円から青蓮 院 門跡を譲られる。ただし、この継承は本来の継承者であった道 覚 法親王(後鳥羽上皇の皇子)が承久の乱の影響で青蓮 院 を退出せざるを得なかったことによるもので、道 覚 法親王はこれを認めず慈円・良快の没後に法親
- 拝島大師
- 拝島大師(はいじまだいし)は、東京都昭島市拝島町一丁目にある天台宗の仏教寺院である。 本覚院 が正式な名称である。大日八坊の一つで、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる良源(元三大師、慈恵大師)を本尊として祀る。 本尊の元三慈恵大師像は良源が自らの姿を刻んだものとされ、本来は比叡山横川の地に祀られてい
- 良源
- ジが重ねられているからだとも考えられている。 滋賀県大津市・延暦寺( 本覚院 )像 - 文永2年(1265年)重要文化財。33体等身木像のうちの一つ。 滋賀県大津市・求法寺像 - 文永4年(1267年)重要文化財。 京都府京都市・曼殊 院 像 - 文永5年(1268年)重要文化財。33体等身木像のうちの一つ。
- 飯道寺
- 院 の2つの 院 の他には住僧も無くなり、衰退を示しつつあった。 明治時代を迎えて神仏分離がなされると、廃寺となったが、後に滋賀県甲賀郡水口村の天台宗寺院・ 本覚院 により再興された。 本覚院 の前身と見られる寺院は、延宝7年(1679年)の検地帳に見られる普賢 院
- 太宗寺
- 太宗寺(たいそうじ)は、東京都新宿区新宿二丁目にある浄土宗の寺院である。山号は霞関山、 院 号は 本覚院 。本尊は阿弥陀如来。 寺伝によれば、慶長元年(1596年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身である。寛永6年(1629年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁
- 松平直義
- に興味を持っては、同じく出雲松江藩主で親戚にあたる松平治郷(不昧)の門人となっていた。 享和3年(1803年)10月22日に死去。享年50。法号は 本覚院 。生前、50歳を過ぎた近貞に(つまり直義に家督を譲った後に)実子の直寛が生まれ、直義はこれを養子として迎えており、死後はこの直寛が跡を継いでいる。
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