清浄心院
基本情報
- 所在地
- 〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町大字高野山566
- TEL / FAX
-
0736-56-2006
- e-MAIL
- URL
- 業種
- 寺院
- コメント
- 最寄り駅
- 南海鋼索線 高野山 2220m
- 南海鋼索線 極楽橋 2570m
- 南海高野線 極楽橋 2570m
- 南海高野線 紀伊神谷 3910m
- 周辺情報
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- 清浄心院
- 清浄心院 (しょうじょうしんいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある仏教寺院・宿坊。高野山真言宗別格本山。本尊・廿日大師。 寺伝によれば、天長年間(824年 - 834年)、空海によって建立された。後に平宗盛によって再建。万延元年(1860年)7月23日、焼失し、現在に至る。
- 四辻与津子
- 内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡 院 と称し嵯峨に隠棲したといわれる。墓所は四辻家菩提寺の京都興聖寺および円照寺。法号は明鏡 院 殿一物素有無大姉[要出典]。甥の上杉定勝は、志駄義繁(志駄義秀嫡男)を使者として、高野山 清浄心院 で追福供養を行っている。 ^
- 塩谷義通
- ある。これは当時、義綱が幼く元服していなかったためだが、その空白期間に義通が繋ぎ的に塩谷氏の家督を継いでいた可能性が指摘されている。 ^ 「高野山 清浄心院 下野国供養帳」に「塩谷岡本宮内為父立之 光叟道本(禅定門) 慶長四年十一月一日」とあり、岡本義保(岡本宮内)が、父塩谷義通のために、慶長4年(15
- 浄土宗
- 鎮西義は良忠の死後にその弟子たちが、鎌倉悟真寺良暁の白旗派(現・浄土宗)・鎌倉善導寺尊観の名越派・性 心 の藤田派(これらを関東三派という)・然空の弟子、 清浄 華 院 向阿証賢の一条派・道光の三条派・良空の木幡派(これらを京都三派という)、さらに蓮華寺一向俊聖の一向派などに分かれ、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になった。
- 上条定憲
- 章第2節(上越市、2004年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻 関東上杉氏一族』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-269-8) 2018年、P249-251参照)。 ^ 高野山 清浄心院 の「越後国供養帳第一」には天文5年卒とある。 ^ または弟。
- 結城時広
- 文永4年(1267年)または文永8年(1271年)の説がある。 参考史料は、 「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則所蔵)) 「結城家過去帳」(高野山 清浄心院 所蔵) 「結城系図」(下妻市光明寺所蔵) 『続群書類従』所収「結城系図」 『系図纂要』所収「結城系図」 没年月日に関してはいずれの系図でも共通して
- 高野山真言宗
- 寳壽 院 (和歌山県高野町) 遺跡本山(ゆいせきほんざん) 神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府) 別格本山 高野山内27寺 - (和歌山県高野町) (宝亀 院 、桜池 院 、天徳 院 、正智 院 、宝城 院 、西禅院、明王 院 、龍光 院 、親王 院 、総持 院 、西室 院 、南 院 、金剛三昧 院 、龍泉 院 、光台 院 、福智院、本覚 院 、本王 院 、普門 院
- 沼田氏
- 上野沼田氏の庶流で若狭国に土着し、沼田祐光を出した一族(『群馬文化』第343号令和3年69-90頁の論文に於ては、若狭沼田氏・上野沼田氏・高野山 清浄心院 の住職は同族であることを発表している) 越中沼田氏 - 藤姓秀郷流波多野氏を称した一族 中世に上野国利根郡沼田(現・群馬県沼田市)周辺を領した武士の一族。居城は沼田城。
- 高野山
- 午前12時30分頃、一 心院 谷の南 院 裏山より出火、同院へ火移り、直ちに高祖 院 、東室 院 へと移り、続いて正塔 院 、六町 院 、幸福 院 、康徳 院 、福智院、蓮花 院 、宝積 院 、正覚 院 、金剛 院 、興山寺、◆覚 院 、定光 院 、西生 院 、無量光 院 、本王 院 、普門 院 、一乗 院 、光輪 院 、如意輪寺、金蔵 院 、愛染 院 、安楽 院 、安養院、巴陵 院 、三室 院 、普賢 院 、報恩 院
- 大国実頼
- 慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に付き従い、南山城代として2万1,000石を与えられた。また同年に高野山を参詣し、 清浄心院 に逆修や父・兼豊の供養を依頼している。そして慶長5年(1600年)に景勝が徳川家康との戦に備えて会津に神指城を築城しようとしたとき、兄・兼続と共に
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